「食育」なんて言葉なくなればいいのに
こんにちは
管理栄養士がなんちゅうタイトル書いとんねんと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、私は「食育」という言葉が無くなればいいのになぁと本当に思っています。
なぜなら、食育という言葉が特別なものの様になってるのが1点
もう1点は食育という言葉がこれほどまでに溢れているということは、危機的状況だということだから
2005年に衆参両院の議員立法法で成立した食育基本法。
『 この法律では「食育」を生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置づける。
食育はあらゆる世代の国民に必要なものであるが、子どもたちに対する食育は心身の成長を及び人格の形成に大きな影響を及ぼし、生涯にわたって健全な心と体を培い豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるものである。』
食育は何気ない日常の中で親や身近な大人から受け継がれていくものなのだと私は思っています。
買い出し
家族みんなで食べるごはん
一緒におかし作り
お外でごはん
給食
散歩
などなど
これらの過ごした時間の中で得た情報や教えにより基礎が固められていく。
でも、この基礎が固められず崩壊してしまってる
だから、こんな法律ができた
おかしい・・・
でも、今の状況を変えるために必要な法なのですよ。
栄養を補おうとトクホや栄養機能表示がされているもの与えてる
知育キットで子どもに野菜を育てさせてる
そんなの食育じゃない
そこに親や身近な大人との時間があって食育となる
栄養を補えていると大人が満足したいがためではなく、本当にこの子に必要なのは何なのか考えたか
育てている野菜の成長の喜びを一緒に共有したのか
そこが大事なのだ
私はよく「食育しててすごいね」とありがたい言葉をかけていただくことがあります。
でも、日々ごはんを共にしている家庭はみんな食育しているやないかと思ってます。
食育という言葉がなんだか特別にすごいようなものになっているけど、違うんです。
一緒に食卓を囲めているなら、沈黙は辛いので自然と会話が生まれてくるんやないかと
「箸だして」「盛り付け手伝ってー」「これ今、旬で美味しいから食べてみ~」「味見してー」「お茶碗は持って食べなさい」
ハードル高いですか
けど、こんな日常が大事な食育です。
ここから広げて「ちょっと一緒におかし作らへん?」「庭のプランターからネギとってきてー」「この料理にはどんな皿がええと思う?」ってなっていったらもっと嬉しいな
自分の話書くので
めんどくさかったら閉じてくださいね。
私は塾っ子でした。
塾へ行くのは、夕方から夜
そうなれば、夜ご飯は一人で食べるか晩酌を長くしている父のそばでささっと食べるかでした。
段々、会話は減りました。
するような会話は成績のことぐらい
模試の順位で自分の価値が決められいるような気がして、上位をとれない自分は劣っているのだと感じるようになっていきました。
他にも、親に言えない大きな悩みを抱えていた私は会話を拒み、そして食事も拒むようになりました。
ぽっちゃりしていた私はどんどんと痩せていきました。
すると、体重計に表示される数字が私に自信を与えてくれたんです。
心身ともに病んでますね(笑)
カリカリになった私は病院に連れていかれました。
ホルモン治療がなされ、太り始めました。
すごく怖かったです。
だって自分の自信がまた崩壊してしまったから
でも、母が私の身体を気遣って大好きだった「茶わん蒸し」と「鶏のレバー煮」を何回も作ってくれました。
出汁をとるのがめんどくさくて顆粒出汁を使っていた母だったのですが、なぜか茶わん蒸しを作るときだけは昔からしっかりと出汁をとって作ってくれたんです。
涙が出るほどうれしくて「茶わん蒸し」を食べました。
母が作る「茶わん蒸し」は私の誕生日に出てくるリクエストメニューなんです。
自信を失い、劣っていると感じる私に元気をくれたのは、母がつくってくれる「茶わん蒸し」でした。
今も太るのが怖いです。
でも、拒食症を経験してから違う自信を得ようと思ったんです。
「管理栄養士」の資格をとろうと。
昔から食に対しての興味が強かったのと、読んだ漫画の影響で(笑)
とれた資格はただの名前だけの資格でした。
でも、されど資格です。
その資格の中身は自分が作り上げて新たな自信としていきたいと思っています。
こんな生きる力をくれたのは、何気ない家族との日常でした。
母が作る「茶わん蒸し」の思い出、家族で囲む食卓、父とトラクターに乗った思い出。
食育という言葉でまとめられてしまうのが勿体ないぐらいの宝物の時間です。
今の子どもたちに食育が当たり前になって無くなってしまうように、私にできることを探し、していきたいと思います。
「食育」なんて言葉なくなればいいのだ